『男の産後うつ』になったようだけど女装したら治ったみたい

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『女装して、一年間暮らしてみました。』

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あっ、私🐶のことじゃないよ💦

『女装して、一年間暮らしてみました。』は、テレビ番組・映画プロデューサーであったドイツ人男性が、一年間女装をするという「実験」をして暮らしてみたドキュメンタリー本なのです。📕

 

 

女装後の人間関係がリアルに描かれているので、紹介しますね😃

 

 

女装で外れる「重荷」

著者のクリスチャン(女性名はクリスチアーネ)が、本📕の中でこんなことを言う場面がある😊

 

「自分でも不思議なんだけど、わたしね、女装をしてるっていう意識がないんだ。ごく普通のこと。重荷が外れたような気分なの。男の性から解放されたんだと思う」 

 

男の重荷ってなに❓って思うかもしれない。

例えば「男は弱音を吐いてはいけない」「男は強くなくてはいけない」なんていう、男はこうあるべきという考え方のことかな。

社会的には男はいろいろ恵まれているところは確かにあるけど、こういう「呪い」みたいなのに縛られてる。

 

事実、うつの罹患率の男女比は、女性のほうが1.6倍ほど多い(「厚生労働省 患者調査2011」より)けれども、自殺率では男性が約2倍(「警察庁統計2011」より)と圧倒的に上回るんだって🙄

 

うつだと認めるのは、強い男としての自分を揺るがしてしまうので、クリニックやカウンセリングに行くことがないので、限界がくると死を選んでしまう、のかもね😥

 

 DVも同じで、気に入らないことがあると腕力に訴えたり、暴言を吐いて、力でねじ伏せようとするのは、「強い男」(カッコ付きよ)の像に縛られているからとも言える。

 

女装をすると、そういう「男はこうあるべき」の重荷をおろすことができる。

まああれかな❓うちの子どもちゃんはキラキラのドレスを着ると「お姫さまみたい〜💒」となりきっちゃうんだけど😌、服を着るとその役割になりきるという効能でもあるんだろうね。

 

女装で変わる人間関係

女装を続けていく著者には、こんな変化が起きたと書いてあった。

 

僕と男性の関係は気まずくなっていった。

男らしさの中に”心の広さ”は含まれていないのだろう。僕の存在を受け入れるふりをすることも、黙って我慢することも苦痛のようだ。批判だけが強まり、男友達の数は瞬く間に減っていった。

 

一方、女性の知人との関係はこうなったみたい。

 

女性の対応は、ふだんとはまったく違っていた。男の僕を前にすると、女性たちはみんな妙な距離を置くので、いつも僕のほうからシグナルを送り続ける必要があった。だが、女の僕とのあいだにはそうした距離感はなく、自然と近くに寄ってくる。僕たちを隔てていた中央分離帯がなくなったのだ。

 

そんなことをいいながらも、女性が著者にたいしてめちゃめちゃオープンになっている(あけすけに性の話をしたりする)のに気づいて、違和感をもったりしてる😅

 

男も女も「らしさ」から逃れられない

私はこの本を読んで「それなりの覚悟が必要だな」と思った😅

男の役割から降りる、と簡単には言えない事情がよくわかるわ。

 

男友達はよそよそしくなる。これって「男はこうあるべき」のフィルターを通じて著者を見ているということだろうし👨

女友達は、あたかも同性のようにオープンになる。これは「この人は見た目は女性なんだから、女性としてうけいれよう」という前提で、著者を受け入れているんじゃないかな👩

 

性別を超越した存在になっても、第三者は性別というフィルターを通してその人を見るのかあ。でも仕方ないかなあ、とも思う。

 

自分が友達だと思っている彼ら、彼女らは、自分が性別を超越したとして、それを受け入れてくれるかなあ。

 

まあでも。

 

「男はこうあるべき」っていう役割に固定化されず、自分の感情に素直になることを、重荷を下ろす(生きづらさを打開する)突破口だとするのは、安冨歩先生の女装と同じことかな。

 

これまでいろいろな自己啓発書を読んだけど、その解決策はほとんどが、自分が構築してしまった「こうあるべき」を壊すことだった。例えば、

中島義道における「怒りの表出」

深尾葉子における「枠組み外し」

二村ヒトシにおける「尻を掘られること」

代々木忠における「自分を明け渡すこと」

なんかかな。

 

「こうあるべき」を壊す象徴としての女装、ってことで!