最近、あるテーマの夢をよく見ます。それは、以前の職場の上司に対して怒りをぶつける夢。実は今朝も見たばかり。
もう会社も辞めちゃって関係ない人たちなのに、私の怒りは根深いなあと、自分でもその執念深さというか心の狭さに驚きます。
しかし同時に私は、許せないことは許さなくて構わないし、時と場合によっては、許すことは害悪にさえなる、と思っています。
- 定時で帰る前に『何か手伝えることはないですか?』と訊いて帰るのが常識
- で、辞める時に文句を言ったのだけど
- 一方で、恨み続けることにも罪悪感を覚える私
- 私には私の「影」を持つ権利がある
- 私たちはいつでも他人を許す、寛容な人間でなくてもいい
定時で帰る前に『何か手伝えることはないですか?』と訊いて帰るのが常識
私が以前の職場をやめる直接のきっかけになったのは、上司から朝礼の時に言われたある一言。
「この中に定時で帰る者がいる。定時で帰っても構わないが、帰る前に『何か手伝えることはないですか?』と訊いて帰るのが常識」
と言われたこと😤
私は園に子どもちゃんのお迎えに行かないといけないので定時に帰っていたのだけれども、これって私に対して言ってるんだよね。なぜなら私の会社で定時に帰るのは私しかいなかったから。
私に直接言えばいいものを、こうやって朝礼という形で「この中に定時で帰るものがいるが」とわざわざ前置きして、私に対して直接言うことを避けるというセコさにも腹が立つけれども、「何か手伝えることはないか」と訊いて帰るのが常識なんてこと、聞いたことなんてない。
百歩譲って私が「何か手伝えることはないですか?」と訊いたとして、「おう、これ手伝ってくれよ」と言われたら、私は子どもちゃんのお迎えにいけないじゃない。
とても理不尽な発言だと、今でも思い出しただけでイライラする。
で、辞める時に文句を言ったのだけど
もちろん長年の不満はたくさんあって、この一言で私の怒りのダムが決壊したんだけど、辞める時に私が反対に「あの時、あんなこといいましたよね?なんでそんなこといったんですか?」と、くだんの上司に訊いた。するとその上司、
「そんなことは言った覚えがない」
「言ったとしても、ミナオに言ったのではない」
なんて抜け抜けと言いやがる(#^ω^)
上司は自分が悪者にならないよう、チクチクと遠回しに嫌味は言うけれども、いざ本人を目の前にするとしらばっくれて責任逃れをしようとするその態度が気に入らない。
もっと気に入らないところはたくさんあるけど、今日はそのくらいにしておこう。とにかく、こういうことが10年近く積み重なってきて、その恨みつらみが会社を辞めた今でも夢に出てくるんです💦
一方で、恨み続けることにも罪悪感を覚える私
こういう憤りを感じる一方で
「でも私にもダメな部分があったんだろう」
「私に言葉が足りなかったのかも」
「上司も私にいろいろ親身になってくれたこともあったじゃない」
という気持ちも沸くのも事実で、恨み続けるのもなんだか悪いなという気持ちに自動的になっていく自分がいる。これを「罪悪感」といってもいい。
恨み続けるのもつらいんだよね。
そして「相手を許さなければ」という考えがもたげてきて、許すことに対するプレッシャーを感じるようになる。でも夢にまで出てくるくらい恨みに思っているので、そう簡単には許すことができない。そして許せない自分を自己嫌悪していくという、ダメなスパイラルに陥っていく。
私には私の「影」を持つ権利がある
でも最近は私も少し知恵をつけてきたので、こういうスパイラルに陥る時には「私には私の影を持つ権利がある」と心の中で唱えるようにしている。
これは私が勝手に思っている暴論だけれども、「許さずに恨み続けること」は世間一般ではよしとされていなくて、「怒りを抑えて許すこと」が美徳とされているように思う。誰が言い出したわけでもなく、もちろん法律として決められているわけでもないけれども、社会通年として「怒ったり恨んだりするのはみっともない。許せることが理性ある証拠」みたいな空気があるように思う。
そういう空気を感じ取っているので、私は恨み続けることに罪悪感を覚えるのだろう。
誤解を恐れずに、ものすごく単純化していうと、怒りや恨みのような「影」の感情は悪いものだという否定的な烙印があるように思っている。否定的に扱われているので、私たちは社会において、これらの「影」の感情をどのように扱うかを教わっておらず(というか最初からないものにされている)、「影」の感情を持つ人を「許しのできない人」として遠ざけて生きている。
そうして抑え込まれた「影」を無視して許すことで自分が本当に癒されるのか?という気さえする。
「許す」かどうかというのはかなり個人的なものであり、社会通年で決められるようなものじゃないと思うんだよね。傷つきが大きく、問題が深刻であるかどうかは、その人が決めること。そして関係を修復する価値があるかを決めるのも、許せるかどうかを決めるのも、個人的なもの。許すことが目標であってはならないと思う。
自分が持つ「影」は醜くて汚くて臭いものかもしれないけれども、そんな「影」を抱えて生きているということは事実なのだから、見ないようにフタをせず、私自身のタイミングで許せるときがくるまで、影を抱えて生きていく権利があるんじゃないかと思う。
私たちはいつでも他人を許す、寛容な人間でなくてもいい
私は上司の言動に傷ついた。その程度で傷つくなんて……というのはあるとは思うが、傷ついたというのは事実である。そういった傷つきが繰り返されることを避けるような努力や、私の痛みに対する真の謝罪がなければ、そんな簡単には「許し」が可能であるとは思わないし、安易に許すのは健康的ではないとも思う。
許しとは、自分を傷つける人を無条件に受け入れることではない。
傷つける人と自分との境界を明確に設定すること。自分の「許せない」という気持ちに応えることを学ぶこと。そして許せないときは徹底して許せないという気持ちを持つことによって、ようやく心から「許す」時がくるのだと思う。
つまり許すとは「自分が影を持っていてもよい」と自分自身を許すところから始まるののだ。許すとは自分を許すこと。他の人を許せるかどうかは、その結果にすぎないってことが、私の考えかな😊