「男の産後うつ」になったようだけど女装したらなおったみたい

私の中にある、生産性で他人を値踏みしたくなる気持ちについて

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世間では「生産性」についてちょっとした議論が起こっています。

その発言の主を擁護するつもりはさらさらありません。これはまず断言しておきたいと思います。

その上ではっきりと認めたいと思います。私にも、その発言の主と同じように、生産性で他人を値踏みしたくなる気持ちがあるということを。

 

 

仕事のできない年配社員をバカにする若手社員の私

これは私がまだ20代だったころの話です。私が新卒で入社した会社での出来事ですが、この会社は世代間の断絶が大きかった会社ではないかと思う。というのも、採用育成担当の人事課長自らが、私たち若手社員に向かって「うちの会社の、使えない年配社員のようになるな。お前たちが会社を変えろ」というようなことを、日ごろから言うような会社だったからだ。

おりしも時代は90年代後半。ちょうどWindows95によって一気にパソコンが職場に広がった時期。私たち若手社員はパソコンに抵抗はない。しかし年配社員はそうではなかった。見積書ひとつも作れない、メールも送れない、ましてやパワーポイントなんて使えるはずもない。パソコン一つもろくに触れない年配社員を見て、私たちは「仕事もできないオジサンども」と、陰で笑っていた。

 

仕事ができないと職場いじめにあっていた年配社員が自殺した

そんな中でも特に「仕事ができない」と職場で大勢から無視をされていたり、格別に厳しくあたられていた年配の社員が自殺をしたことがあった。正確に言うと、そういう仕打ちを苦にしたのか、その人は会社を辞めてしまったのだけれども、辞めて半年くらいたって自殺をした、という話が耳に入ったのだ。

私もその年配社員を陰で笑っていた一員であった。その人は、私に話しかけてくることもあったが、私はあまり関わらないように愛想笑いでその人を避けるような態度をとっていた。私自身がいじめに加担したと言ってもいい。

その人が自殺をしたと聞いたとき、「私のせいかもしれない」という思いがよぎった。せめて私だけでも仲良くしていれば、年配社員は自殺なんかしなかったかもしれないのに、とも思った。

私が彼の自殺の引き金を引いた一人なのだ、という気持ちをぬぐうことができず、良心の呵責に苦しんだ。こんなことならば、陰で笑ったり、避けたりしなければよかった――と。

 

仕事のできる・できないでその人の価値は決まるのか

私は、その人を「仕事ができない」という一点で見下していた。職場において生産性がないことを理由に、差別をしていた訳だ。しかし、仕事ができないからといって、そのような差別は正当化できるのだろうか?そんなはずはない。

仕事ができるできないということと、その人の価値は全く無関係だ。LGBTだから生産性で値踏みをしてはいけないけれど、仕事ができない人であれば値踏みをしてもよい、ということはないはずだ。どんな人でも人間としての尊厳は尊重されなければならないと、今では思う。

LGBTとは違って、会社という組織は営利目的で存在しているのだから、社員である以上、生産性を求めるのは当然だという声があるだろうか。たしかにそうかもしれない。しかし、それがいじめや無視、差別の理由として使われてはならないと思う。

 

私も生産性で他人を値踏みする人間である

くだんの「生産性」のニュースを見るたびに、私には当の政治家を笑ったり嘲笑したりする権利はないという思いがよぎる。なぜなら私も、その側の人間だからだ。

もう今はそれを克服しているかというと、それも断言はできない。今でもスーパーのレジに並べば「もっとテキパキとレジ打ちできないのか」と、心の中でレジ担当者の生産性を値踏みしている自分に気づく。

経営者同士の集まりに参加をすれば、自分よりも売上や利益率の低い会社の経営者を見ると、理由もなくホッとする(いや「勝った」とさえ思う)自分に気づく。

私は20代のころ、年配社員の自殺で自責の念に駆られたにもかかわらず、今でもやはり、生産性で他人を値踏みすることがやめられないのだ。そんな卑怯な人間である私は、当の政治家と同類だ。

(当の政治家の発言を容認しているわけではありません。むしろ、自戒も含めて否定しています)

 

生産性を盾に他人を値踏みすることを許してはいけない。一方で、値踏みをする人を批判する私たちも、値踏みしてしまうことから完全に無縁であるとは言えないのではないだろうか。

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